春も終わりに近い時期は、夜になっても暖かい。
ラングヒル伯爵家の屋敷は、貴族の邸宅としては一般的なものである。 特別広くもなく、豪華でもない。 ごくごく普通の伯爵家では、夕食後はラウンジに家族みんなで集まり、語り合うのが習慣化している。 もちろん、そこにミカエラの姿はない。「ミカエラは上手くやってるのだろうか?」
「うふふ。お父さま、ミカエラに多くを求めるのは酷ですわ」金に近い茶色の髪を持つ当主、イアン・ラングヒル伯爵の嘆きに、長女であるイザベラが赤っぽい茶色の目をおかしそうに歪めて答えた。
ラングヒル伯爵家のラウンジでは、ミカエラへの悪口大会が開かれていた。 毎日の恒例となっているため、疑問に思う家族は誰一人としていない。 話題としてはミカエラのことが多くとりあげられ、その内容は彼女への不満と蔑みだった。「そうよ、お父さま。ミカエラお姉さまは、そこまで賢くはありませんわ」
「確かに。あの子は賢いというタイプではないわね」次女ケイトの言葉に、母親であるキャシーは相槌を打った。
「だったら、なんで王太子殿下の婚約者になんてなれたの?」
「それは、クリス。立ち回りが上手だった、ということだよ」長男は弟に分かりやすく伝えた。
だが長女は長男の言葉にフフフと笑う。「カイル兄さま。ミカエラは立ち回りも上手には見えないわ。あの子が立ち回り上手だなんて褒めたら、他の優秀なご令嬢方に私が文句を言われてしまいます」
「それは大変だね、イザベラ」柔らかな笑みを長女へと向ける長兄に、次女は甘えるように訴える。
「私もですわ、カイルお兄さま。ただでさえミカエラお姉さまのせいで、高位貴族のお姉さま方から私はイジメられていますのに……」
「ああ、可哀想にケイト」長男が妹へ同情の視線を向けると、母も労わるように言う。
「私の可愛いケイト。貴女がそんな辛い目に遭っているなんて」
「お兄さま、お母さま。大丈夫ですわ。私は耐えてみせます(王太子は……アイゼルは……何を考えているのだろうか……) 第一王子の幼馴染にしてミカエラの護衛騎士でもあるレクター・ニールセンは、今日も難問に悩まされていた。 黒い短髪に凛々しい黒い瞳。 二メートル近い高身長で、鍛え上げた体は鋼鉄のような筋肉をまとっている。 浅黒い肌をしたレクターは、騎士であり戦士でもある。 伯爵家の次男であるレクターが王太子婚約者の護衛騎士をしているのは、家柄が良いせいだ。 ニールセン家は爵位こそ伯爵ではあるものの商家や神殿との繋がりも強く、力のある家門の一員である。 次男であるレクターは家督を相続するわけでもないが、かといって戦の最前線に立つわけにはいかない。 嫡男である長男に、まだ子供がいないためだ。 完全に自由というわけにはいかない。 腕に自信のあるレクターは護衛騎士という仕事に不満があるものの、武官を辞めさせられて領地経営を手伝わされるよりはマシだと受け入れたのだ。 世の中には妥協しなければいけない事もある。 それは理解しているものの、アイゼルの態度とミカエラの置かれている状況には納得がいかない。(今日の襲撃にしたって、そうだ。アイゼル自身は服の下に付けた保護衣のおかげで無事だったから良かったものの。ミカエラさまは、心配のあまり倒れてしまったそうではないか。なのにアイゼルときたら見舞いにすら行かないで) 襲撃された後、ほどなくアイゼルは意識を取り戻した。 保護衣を付けていて傷は負わなかったと聞かされたし、彼に負傷した形跡はなかった。 血は流さずに済んだものの、刺された衝撃は防ぐことが出来ずにアイゼルは気を失ったらしい。(あんなに大袈裟に倒れた癖に。アイゼルときたらケロっとしてるんだもの。驚くよな) 王太子は無事だったものの、その婚約者は倒れた。 ミカエラが倒れたという知らせを受けても動じない幼馴染の冷徹さに、レクターは呆れた。 しかも。 執務に戻れる程度には回復したというのに、婚約者の所へは見舞いにすら行かなかったのだ。(婚約者なんだから普通は見舞いくらい行くだろう? ましてや自分が心配かけたせいなんだから、ちょっとくらい気を使えばいいのに。花くらい贈れよ) レクターは自分自身が逞しく丈夫であるだけに、日頃からミカエラのか弱さに庇護欲をそそられていた。 そのせいなのか。 アイゼルの彼女
痛い、痛い、痛い。 ミカエラは自室のベッド上で呻いていた。「大袈裟ですよ、ミカエラさま。明日の朝には治っているのですから、騒がないでください」 侍女はいつものように冷たく言い放つ。 だが。 それが分かっていたとして、何の意味があるのか。(いま痛いの。傷が、とんでもなく痛いの!) いまの痛みが事実なら、それ以上に重要なことなどミカエラには無いではないか。 ミカエラはそう思うが、彼女の感じている痛みは、ミカエラ以外にとっては意味がない。 侍女ルディアは冷たい表情で見下ろしながら傷口の包帯を取り換える。 その隣で、白衣を着た老人は苦笑いを浮かべていた。「まぁまぁ。いつもの事だといっても、痛みは取れないのだから大目に見てお上げなさい」「先生。今回のことは先生も悪いのですよ?」 侍女はそう言って医師を睨んだ。「はははっ。いや、面目ない。どうせ死なないと分かっているから、つい。一気に小剣を引き抜いてしまってな。だから血は噴き出してしまったというわけだ」「そんなことだろうとは思いましたが。王太子殿下が無事だとしても、ミカエラさまの異能のことは気付かれてはいけないのです。一応は王太子殿下の婚約者ですし、部屋に引きこもっているわけではないのですから狙われた大変ですよ? 他人の目は意識してください」 医師は真っ当な意見を侍女に言われて白髪の頭をポリポリとかいた。「ははっ。分かった、分かった。王太子殿下の傷から血が噴き出してしまっては困るが、違う場所で起きることまで気が回らなくてな。年かな?」「先生は……まぁまぁ御年を召していらっしゃいますが……秘密を守るためには頑張って頂かないと困るのですからね?」「分かっているよ、ルディア」 医師は罰が悪そうにコクリと頷く。 侍女は溜息を吐いた。「王太子殿下が国王になられても、コレは続くのでしょう? 秘密を守るためには、何十年とコレに付き合わなければなりませんのよ」「確かにそうだな。私の次の世代についても考えておかねばならんな」 侍女の言葉に、医師は顎に手をやって思案深げに頷いた。「何をおっしゃいますやら。まだまだ先生は大丈夫でしょう?」「それでもいつかは世代交代せねばならんしな。それに、私だって少しは老後を楽しみたいよ」「私もそれは同じですわ、先生。いつまでも、こんなお世話ばかりでは嫌です」
「なんだ。失敗しちゃったんだね」 第二王子であるミゼラルは、自室のソファにゆったりと体を沈めながら平然と笑顔を浮かべて報告を受けた。 身長185センチの健康的な肌色をした男は襲撃失敗に動じることもなく、赤い瞳のはまった目に笑みを浮かべて面白そうにしていた。 窓から差し込む日差しは傾いて、今日という日は失敗のうちに終わっていこうとしている。 が、男の表情に失敗による重苦しさはなく、むしろ軽やかであった。 豪奢な部屋には大きなベッドにシックなソファセット、凝った装飾が施されたコンソールテーブルの上には華やかな花瓶と置時計などが置かれている。 しかし第一王子の部屋に比べたら、広さも、調度品の数々も、ことごとく劣る部屋だ。 だからといって第二王子であるミゼラルが、特段それを気にしている様子はない。「僕は別に兄上のことは嫌いじゃないからね。どっちでもいいよ」 ミゼラルは21歳。 王太子アイゼルよりも1歳年下である。 彼は王太子になれなかった。 だが王太子になれなかったのは年齢のせいではない。 母が側室だったからだ。 マリアの生家であるマグノリア伯爵家は、貴族として高い地位にいるとはいえず、政治力はもちろん財力にも乏しかった。 マリアの類まれなる美貌により側室となり男子を儲けたものの、正妃の産んだ男子には敵わない。 その結果、現在のミゼラルは王子という地位には居るものの、将来については不透明であった。「国王にならなくても、公爵になってもいいし、有力貴族や他国の王族の所へ婿にいってもいい。僕は甘え上手だから、どこへ行ってもなんとかなると思うんだよね」 第二王子であるミゼラルを王太子に担ぎ出すほどの材料は、どこにもない。 だが伯父であるマグノリア伯爵家の現当主は、ミゼラルを国王にしてのし上がることを諦めてはいない。 第一王子を排除できればチャンスはあるとばかりに、アイゼル暗殺を何度か企てている。 成功はしていないが、尻尾もつかまれてはいない。「でも伯父上は諦めないだろうな。諦めが悪いもの、あの人」 ミゼラルはうっそりと笑った。 マグノリア伯爵家は母の実家ではあるが、ミゼラルにとっては特別に思い入れのある家ではない。 マグノリア伯爵に対しても、伯父という以上の思い入れがあるわけではないから、襲撃が成功してもしなくてもどうでも良か
襲撃を受けた後、慌ただしく自室に戻ったアイゼルは、脱いだ上着をソファへ乱暴に叩きつけた。 脱ぎ捨てた上着をメイドが回収していくのを睨みつけながら、アイゼルは激しい怒りに身を震わせる。(またミカエラを傷付けてしまった!) 後悔が彼を苦しめるが、自室にいても密偵がどこに潜んでいるか分からない。 アイゼルは感情のままを表に出して叫ぶこともできず、奥歯を噛み締めた。(王宮は敵だらけだ。本音なんて出せない) 眉間にシワを寄せて険しい表情を浮かべるアイゼルに、幼馴染たちは気遣わしげな視線を向けた。 レクターがアイゼルの肩に手を置いて話しかける。「アイゼル。大丈夫か?」「ああ。大丈夫だ」「アイゼルは丈夫だもんね。どこからも血はでてないし。医師の見立てでも心配ないって言われたんだから安心だよ」 イエガーが明るく言っても、レクターはモゴモゴと何かを呟きながら未来の国王の体をあちらこちらから眺めている。「令嬢の力とはいえ、刃物を突き立てられたのに」「衣装の金具にでも当たって刃先がそれたんじゃないの?」「お前は軽いな、イエガー」「だってアイゼルが無事なんだからいいじゃん」 レクターに向かって、イエガーは不満げに唇を尖らせて見せた。 アイゼルは疲労の色を見せながら、2人にをたしなめた。 「揉めないでくれ。私は疲れたから、ちょっと1人になりたい」「あ、そうだな。気が回らなくてすまない」「じゃ、僕たちは行くね。お大事に」「ああ。今日はありがとう」 バツの悪そうな表情を浮かべるレクターの横で、イエガーは明るく手を振って部屋を出ていった。 アイゼルは1人になった。 とはいえ襲撃直後ということもあり、扉の前はもちろん、部屋の中にも護衛はいる。 アイゼルは大きな溜息を吐くと、ソファの上へ寝そべるようにして座って目を閉じた。(ミカエラを傷付けたくなんてないのに。いつもこうだ。どうしてこうも上手くいかないのか……) あの日。 初めて会った花咲き乱れて日差しがたっぷり降り注ぐ明るい庭で、アイゼルはミカエラに恋をした。 大人をそのまま小さくしたような令嬢たちのなかで、ミカエラだけが自然に笑っていた。 作り物だらけのなかで彼女だけが本物。 そう思った瞬間、アイゼルは恋に落ちていた。 アイゼルはミカエラの家柄も知らなかったし、異能のことも知らな
襲撃から少し前。 庭園のガゼボで、ミカエラは美しいカーテシーを披露していた。「お招きに預かり、ありがとうございます」 「まぁ、ミカエラ。いらっしゃい。今日も華やかなドレスね。お庭のお花も霞んでしまいそう」 王妃は、ふふふ、と、笑う。「……」 美しい淑女である王妃は、嫌味すら優雅にこなしてしまう。 今日のミカエラのドレスは深紅の地に赤いフリル、そこに金の刺繍を施したものだ。 ウエストにはドレスよりも一段濃い色の生地を使った太目のベルト。 背中側には大きなリボンが付いている。 スカートのボリュームは抑えてあるものの、デザインとしてガーデンパーティーに相応しいかどうかは謎である。 暖かくなってきた時期の日中。 庭には日差しがたっぷりと降り注ぎ、花々は輝いている。 ガゼボでのお茶会に、しっかりとした長袖の深紅のドレスは暑苦しいかもしれない。(わたくしだって、こんなドレスで来たくはなかったわ) にも関わらずミカエラが深紅のドレスを選んだ理由を、王妃は知っている。 ミカエラの体は王太子アイゼルを守るために、いつ血を流すか分からないのだ。(アイゼルさまが傷付けば、身代わりとして血を流すのはわたくし。それを目立たなくするための赤いドレスなのに) 万が一の時に目立たなくするための工夫に、嫌味を言われる理由などない。 それでも王妃がミカエラに対して嫌味を言うのは、他の貴族たちへ見せつけるためだ。 ミカエラが非常識なだけで、自分には関係がないのだと。 無関係だというアリバイ作りの為のやり取りだ。(今に始まったことではないし。いちいち気にしていたら、わたくしの身が持たないわ) とはいえ全く気にしないでいるというのは無理だ。 他の貴族令嬢やご夫人方は、生成りにレースのドレスだったり、白と青のストライプのドレスだったり、白地に花柄のドレスだったりと華やかながらも爽やかな装いをしている。 この時期に着るべきものとしては、そちらのほうが適切だと、ミカエラも知っていた。(私が淡い色のドレスを着られない理由を、王妃さまはご存じなのに。私を貴族たちから守るどころか、それすら攻撃の理由にされるのね……) ミカエラも年頃の女性だ。 普通にお洒落を楽しみたい気持ちもある。 爽やかで華やかな令嬢たちの装いを眺めながら、自分がそうできない理由に思いを
サロンを出た王太子一行は、お茶会が開かれている庭園を目指した。 庭園は王宮と繋がっている。 外廊下を出たなら、すぐに美しい花々が見られる趣向だ。 周囲を建物に囲まれて中央に位置する庭園は、王族や貴族たちにとっての憩いの場であり、警備も万全の安全な場所と言えた。 美しく安全な憩いの場だからこそ、王妃主催のお茶会がガゼボで行われ、そこに王太子の婚約者であるミカエラや王太子本人が会しても問題がないと許可が出されたのだ。 だが――――。「危ないっ!」 最初に声を上げたのはイエガーだった。「「「「「キャー―――ッ!」」」」」 令嬢たちの悲鳴が背後で上がる。 目前の護衛が突然剣を抜き、アイゼル目がけて飛びかかってきたのだ。 寸前で身を躱すアイゼル、間に割って入るイエガー。 アイゼルは令嬢たちを守るように、その前に立っていた。 レクターは素早く駆け寄り、襲撃者となった護衛の前に立ち塞がる。「どういうことだっ!」 レクターは低くて太い声で、威嚇するように怒号を上げる。 しかし非番の彼は武器を携帯してはいなかった。 一瞬怯んだ襲撃者は、次には馬鹿にしたような表情を浮かべて、黙って剣を構え直した。 背後に付いていた護衛がアイゼルを捉えようと手を伸ばす。 イエガーはその手を振り払い、殴りかかった。 が、体格の良い襲撃者相手との戦いは小柄なイエガーにとって圧倒的不利であり、伸ばされる手を防ぐ程度の効果しかない。 体格で劣るイエガーの反撃は易々と躱される。 襲撃者たちに諦める様子はなかった。「私を王太子アイゼル・イグムハットと、知った上の狼藉かっ?」 護衛から一転、襲撃者に代わった男の手を逃れたアイゼルが問う。「「「……」」」 だが、こちらに向かってくる元護衛たちは無言だ。 言葉を発することなく、鋭く光る切っ先をこちらに向けて迫って来る。 騒ぎを聞きつけて他の護衛騎士たちも駆けつけてくるに違いない。 それが分かっていて襲ってくるということは、彼らは捨て身の襲撃者なのだ。 命を捨てる覚悟を持った者たちに襲われたなら、腕っぷしの強さに関係なく油断は禁物。 アイゼルたちからは、ついさっきまでの浮かれた気分は一気に吹き飛んでいた。「殿下の命をお守りしろっ」 イエガーは叫ぶが早いかレクターの背後から飛び出した。 小柄な体を活かして